岩手の星「ロックハンドスター」という馬のドラマを知ってほしい
競馬はドラマです。
今回は「ロックハンドスター」という馬のドラマについて書かせて頂きます。
東京競馬場のダート1600m戦
2011年10月10日に盛岡競馬場の代替で行われた「マイルCS南部杯」
岩手3冠馬のロックハンドスターの悲劇
今の私なら当時の岩手競馬ファンの気持ちが痛い程判ります。 pic.twitter.com/LKoQQjy3Jc
— ガンバシチー (@gambacity) 2015, 2月 16
写真が無かったのでツイッターを貼ります。
岩手の星「ロックハンドスター」という馬
ロックハンドスターは2009年に競争馬としてデビューして地方競馬の岩手競馬で競争生活を送りました。
2010年ロックハンドスターは3歳となり岩手競馬3冠レースと言われている、ダイヤモンドカップ、不来方賞、ダービーグランプリという3つのレース全てで優勝して3歳三冠という偉業を達成しました。
同じ年の12月には桐花賞というレースで年上の馬と対戦して勝利しました。
大活躍したロックハンドスターは2010年岩手競馬の年度代表馬および3歳最優秀馬部門という賞に選出されました。
そして2011年に4歳となったロードロックスターは3月に東日本大震災を経験します。
毎年岩手の盛岡競馬場で行われていた地方G1「マイルチャンピオンシップ南部杯」が2011年は復興支援レースとして東京競馬場で開催されることになり、岩手所属として出走したロードロックスターはレース中のアクシデントにより亡くなりました。
デビューから活躍して岩手競馬を救う「岩手の星」と言われたロックハンドスターは復興支援のために出走したレースで亡くなるという悲しい悲しい結末ですがロックハンドスターの存在は間違いなく岩手の希望でした。
岩手の星ロックハンドスター
岩手競馬は1991年に691億の売上を記録するも、バブル崩壊後は赤字となり単年度で黒字か収支均衡でなければ廃止という瀬戸際に立たされていました。
そんな時にロックハンドスターはデビューしました。
デビュー後のロックハンドスターは三歳3冠を達成しました。ロックハンドスターは岩手の星として名実ともにスターホースとなりました。
復興支援レースなのに
2011年の東日本大震災は岩手競馬だけでなく、日本中央競馬会(JRA)にも大きなダメージを与えました。
その年は毎年岩手の盛岡競馬場で行われていた地方G1レース「マイルチャンピオンシップ南部杯」が東京競馬場で復興支援レースとして開催されることになりました。
岩手代表として出走依頼があったロックハンドスターでしたが東日本大震災の影響でコンディションが悪く、強敵となるJRAの馬も出走するマイルチャンピオンシップ南部杯に出走するべきではないと関係者は考えていました。
しかし、東京競馬場で開催される今回は十数倍の観客が見に来てくれる中でレースをすることができます。そんなレースに岩手の星ロックハンドスターが出走するということは、全国に岩手競馬を知ってもらえるチャンスでもありました。
悩んだ末にロックハンドスターは出走することを決めました。
東京競馬場のダート1600mコースで行われたレースは芝からスタートして途中でダートコースに変わるコース携帯でした。ロックハンドスターは芝からダートに変わる境目で騎手が落馬。その後ロックハンドスターも予後不良で亡くなりました。
ロックハンドスターは岩手競馬を救った
復興支援レースとして行われたマイルチャンピオンシップ南部杯の売り上げは記録的な数字を残し、その分配金で岩手競馬廃止の声は無くなりました。
ロックハンドスターは自らの生命と引き換えに岩手競馬を救いました。
競馬はギャンブルだけじゃない
今回私が書いたロックハンドスターのお話は新・優駿たちの蹄跡 ~絆編~というマンガに収録されています。
ロックハンドスターという馬を知ってもらいたくて今回の記事を書きました。
しかし、合わせてもう1つ知ってもらいたいことがあります。
それは競馬はドラマということです。
確かに競馬はギャンブル(賭け事)として成り立っています。ロックハンドスターのような悲しい出来事もあります。でも「競馬はドラマ」という考え方もあります。
何がドラマだと言われたら答えは難しいです。人によっては感動であり、人によっては興奮であり、私であれば人生が変わるくらいの存在でした。
詳しくはこの記事で語っています。
ロックハンドスターというような岩手競馬を救った競争馬もいます。競馬はドラマでありギャンブルの一言で片づけられない。という私の思いが伝われば嬉しいです。
読んで頂きありがとうございました。