あなたの常識は誰かの非常識かも。常識が必ずしも正しいとは限らない。
私は「常識」という言葉が嫌いです。
もちろん非常識な言動は他人に嫌われるので極力常識と思われる生き方をしていますが常識が必ずしも正しいかと言うと違うと考えています。
先日のニュースで自民党の野島都議が「プライベートな場では結婚したらどうだ!」と言った発言に対して報道していましたが私はプライベートな場なら構わないという考えです。
街の方へセクハラになるかアンケートを取っている中で「時と場合による」という回答がありましたがまさにその通りです。
今回は常識って何だろうと考えてみた自分の意見を書きます。
photo credit: jjMustang_79 via photopin cc
客観的に否定から入らない
人でも記事でも何かを自分が見たり聞いたり読んだりする時に否定的な考えから入らないように私は気をつけています。
理由は簡単で自分が必ずしも正しいとは思っていないからです。
例えば、「電車で赤ちゃんを抱っこしている人がいたら席を譲る。」これは常識的に正しいのかもしれませんが必ずしも正解とは限りません。
赤ちゃんを抱っこしている母親は座ったら泣くから立って抱っこしてあやしているかもしれません。それなのに「席を譲る」という常識的な考えを母親に言っても母親からしたら非常識なのです。放っておいてくれということです。
常識が必ずしも正しいとは限らないし必ずしも優しいとも限らない。非常識だと思っていることが実は相手のことを考えた常識だったらどうしますか?
非常識だと思うから否定するのではなく「そういう考えもあるんだ」と思える人が今後は増えていくと私は嬉しいと思います。
否定ではなく「そういう考えもあるんだ」と思う
毎日を生きていればムカつくこともあるしイラッとすることもありますよ。皆さんもあると思います。
そんな時に「なんだよウゼーな」と思うか「そういう考えもあるのか!」と思うだけで人間としての器が大きく広がると思っています。
「許せる人」と「許せない人」の違いは器の大きさです。という記事を以前書きましたが参考になると思います。
店員さんの態度が悪ければ「忙しいんだなー。」と思い、電車で隣に座っている人が倒れ掛ったら「眠いんだなー。」と思えば良いじゃないですか。
本当に優しい人は許せる人だと思っているので私は許せる人になるよう心掛けています。
常識なんて言うのは結局多数決で決まった答えでしかないですから…。
常識が正しいというのは多数決でしかない。
常識と言われる考えは多数決で決まっただけです。賛成意見と反対意見の両方を考慮した結果で常識が決まるのではなく多くの人が賛成してくれるから常識が決まるのです。
選挙と同じですね。しかし多数決で常識を決めるのは時々間違うこともあるので時代の流れの中で常識は変わることがあります。
「ゆとり世代」というテーマはまさに時代の流れの中で一度は正しいと認められるも最近は間違っていたと思われているような考えではないでしょうか。
多数決で決める常識は多くの賛同者がいるわけですがそこに「少数派の意見」をもっと大切にする視点を取り入れたいと私は考えます。
だって多数決で正しいかどうか決まるなら時代や人によって結果は変わるでしょ?もっと言えば自分と相手が手を取り合って正しい何かを生み出すかもしれませんよ。、
「常識って何だろう?」と常々考える思考も私は間違っていないと思います。